1. 畝傍町(旧畝傍村)小史(工事中)
  2. A. 畝傍町(旧畝傍村、江戸期-1889(明治22))関連の歴史
  3. 旧畝傍村は現在の橿原神宮(第一代神武天皇と皇后を祀る;1890年、明治23年創建)本殿(外・内拝殿、幣殿の向こう側にある;旧畝傍村高畠に位置する)の場所(古事記・日本書紀によると、神武天皇の皇居(古事記:畝火かしはらの宮,日本書紀:畝傍橿原宮)跡と伝えられる;旧畝傍村には、この伝えはない;神苑(約50万m2)内に300種・8万本の樹木)を含む付近一帯(深田池(奈良時代頃からある?;畝傍、池尻、久米、大久保、山本、四条、慈明寺、寺田の共有溜池(深田溜池規定書))、長山稲荷社(旧畝傍村字長山に位置する;地主神)、新池、東大谷日女命神社、池田神社、畝傍山(霊峰;休火山;海抜199.2m、花崗片麻岩中に黒雲母安山岩噴出、トロイデ火山型;古事記は畝火山、日本書紀は畝傍山と表記;俗に峰山、慈明寺山などと呼ばれた)の一部を含む)に位置していたが、住民は、国策による橿原神宮(第3次)拡張事業(1944年、昭和14年)に伴う(強制)移転のため、現在は、その東北約1kmにある橿原市畝傍町(近畿日本鉄道畝傍御陵前駅南西すぐ)に移っている(橿原神宮も現在の、橿原市畝傍町内にある;本殿は近畿日本鉄道橿原神宮前駅の北西約1.5kmに位置する)。(神武天皇稜(畝傍山東北稜、うねびやまとのうしとらのみささぎ;諸説あったが、1855年(安政2)以降、現在の場所に位置する)は橿原神宮の北約2km(橿原市大久保町)にある。)
  4. 原始・古代  
  5. 旧石器時代(約10万年前〜1万年前):狩人の時代→国府型ナイフ形石器文化→定住進む。
  6. 縄文時代(紀元前1万年前後〜前4世紀頃):橿原遺跡(縄文後期(約3000年前)〜平安期)。東日本と交流。土偶・石棒などの呪術具。
  7. 弥生時代(紀元前8−7世紀前後〜後2−3世紀頃):紀元前660-紀元前585?第一代神武天皇(大国主命→高天原、天照大神→磐余彦尊、東征:日向国高千穂宮→熊野→(やたがらすの先導)→吉野→畝傍)。57,107倭の国王後漢に遣使。  
  8. 〜3世紀 :239邪馬台国女王卑弥呼、魏に遣使。古墳時代。イトクの森古墳(古墳時代前期、前方後円墳、全長30m;前方部削り取られ、後円部残存、池田神社あり)。3世紀後半、魏志倭人伝(中国の魏の史書「魏志」の「東夷」の条にあり、日本古代史に関する最古の史料)。  
  9. 〜4世紀:350頃、大和朝廷の統一。?-394?第十五代応神天皇。?-427?第十六代仁徳天皇。?-527?第二十六代継体天皇(二十六代以降、実在確実という説あり)。畝傍(うねびは丘陵のすそが長く展開する地形を示しうね(峰)び(尾)か?)という地名がみえる。〜6世紀後半:越智氏、越智郷(現今治市国分付近)に出自か?  
  10. 飛鳥時代(〜6世紀-8世紀初頭):538頃、仏教伝来。592-628第三十三代推古天皇。畝傍池。593-622聖徳太子の摂政。607遣隋使の初め、法隆寺創建。630遣唐使の初め。645(大化1)大化の改新。飛鳥京(豊浦宮・飛鳥浄原御原宮など、6世紀末-7世紀末)。645年頃:日本書紀:蘇我蝦夷の家は甘樫丘と畝傍山の東にあり,畝傍山周辺は蘇我氏の勢力下.655-661第三十五代斉明天皇(女帝、天智・天武天皇の母)。668-671第三十八代天智天皇。白鳳時代(7世紀後半-8世紀初頭)。672壬申の乱。673-686第四十代天武天皇。686-697第四十一代持統天皇(天皇家に関する神話(天照大神(持統天皇)→孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)(孫の文武天皇))、儀式(伊勢神宮の式年遷宮(20年ごと(人心も一新させる))などを完成させ、天皇家による(永遠の)日本国全土統治を具現か?天武天皇とともに明日香村、檜隈大内陵(野口王墓(のぐちおうのはか)古墳、天武・持統合葬陵古墳)に眠る;藤原京から見て、東に天照大神(天皇の(神話上の)祖先)を祀る伊勢神宮、西に神事を司る出雲大社(大国主命を祀る、遷宮60年ごと;大神神社(おおみわじんじゃ、大和国の一宮・三輪明神、桜井市三輪、神体山三輪山)は大国主命を祀る日本最古の神社)あり。694(朱鳥8)藤原京に遷都。697-707第四十二代文武天皇。  
  11. 奈良時代(710-784):710(和銅3)平城京に遷都。712(和銅5)古事記(稗田阿礼踊習→太安万侶撰録)、成る。720(養老4)日本書紀(舎人親王(天武天皇の第3皇子)、太安万侶ら編纂)、成る。(うねびは古事記・日本書紀の時代から、畝火、宇尼備、宇泥備、雲根火、畝桶、畦桶などと、書かれている。)752(天平勝宝4)東大寺大仏開眼供養。759(天平宝字3)頃、万葉集(大伴家持ら編纂;越智氏は大伴氏と関係ありという説あり)成る。  
  12. 平安時代(794-1185):794(延暦13)平安京に遷都。大和源氏説(越智氏の源流は清和源氏(清和天皇から出た源氏)源頼親であるという説;越智氏は代々現五条市宇野町に居て、宇野源氏また、大和源氏とも云った)。畝傍山西麓に、畝火山口神社(俗に、お峰宮という;神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)・豊受比売命・住吉三神を祀る;現在、県社)建立か?858-876清和天皇。939(天慶2)天慶の乱。1086(応徳3)院政始まる。1185(文治1)平氏滅ぶ。守護・地頭を設置。雲飛荘(うねびのそう、平安期からみえる荘園名)。古代出雲大社本殿(高さ48m)創建?
  13. 中世  
  14. 鎌倉時代(1185-1333):1192(建久3)源頼朝、鎌倉幕府を開く。14世紀、越智氏、現高市郡高取町に越智本城(越智氏居館(オヤシキ、平時の居館)と貝吹山城の総称)を築く(菩提寺:霊鷲寺(高取町清水谷))。1332年越智邦澄、高取城(越智氏の支城)を築く。 1274(文永11)文永の役。1281(弘安4)弘安の役。1331(元弘1)楠木正成、千早城にこもり、第九十六代後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐に参加。1334(建武1) 建武の中興。 1346(貞和2)光雲寺(越智氏の菩提寺、高取町)建立。
  15. 南北朝時代(1336-1392) 
  16. 室町時代(1392-1573):1338(慶応1)足利尊氏、室町幕府を開く。越智氏、南朝方武士の中心勢力となる。越智維通(これみち)、越智家栄(いえひで)が有名。(北朝方武士の中心勢力は、現大和郡山市(大和郡山城がある)を本拠地とする、筒井氏)。1370-1371((南朝)建徳1-2) 浄宗寺創立(楠木氏の一系による、楠木氏の菩提寺;*楠木氏の菩提寺として観心寺(河内長野)が有名)。1392(明徳3,元中9)南北朝の合一。1467(応仁1)応仁の乱起こる。1573(天正1)室町幕府滅ぶ。  
  17. 戦国時代(1467〜1477-1573)畝傍村形成された?  
  18. 安土・桃山(織豊)時代(1573-1603):1573-1591(天正1-19)畝傍山口神社、畝傍山山頂にあり(以前は、越智本城から見下ろす位置にあったため、越智氏が移転か?)。1582(天正10)本能寺の変で明智光秀によって、織田信長が横死。1583(天正11)越智家秀死し、越智氏滅亡。筒井順慶が黒幕か?越智氏一族の一部、畝傍村に土着か?1600(慶長5)関が原の戦い。
  19. 近世
  20. 江戸時代(1600-1867):1603(慶長8)徳川家康、江戸幕府を開く。旗本、神保氏知行。1612(慶長17)畝傍御坊信光寺(畝傍御坊と称され、大和五箇所御坊の一つ)建立(神保相茂(長三郎)による)。1639(寛永16)鎖国。1688-1703(元禄1-16)頃、畝傍山、旗本神保氏のお取り上げ(近世:麓5か村の百姓持・寺院持;戦後、国有林)。1718(享保3)喜多酒造創設。1758(宝暦8)宝暦事件。およし(釈妙林)。1760(宝暦10)池田神社・東大谷日女命神社改修。1764(明和1)台風、畝傍山の樹木1000本余倒れる。1765(明和2)台風。1768(明和5)大凶作。惣治郎事件(畝傍村惣治郎ら、旗本神保氏に強訴→死刑)。1661-1703(寛文1-元禄16)間に、畝傍村、御坊村を分村。1806(文化3)清六(初代)。
  21. 1807(文化4):PDFファイル(懿徳天皇皇后陵)。  1825(文政8)外国船打払令を発す。1831(天保2)9月5日、宮座発足。1853(嘉永6)アメリカ使節ペリー、浦賀に来航。1867(慶応3)大政奉還。
  22. 近代・現代  
  23. 明治時代(1868-1912、明治1-45):第百二十二代明治天皇。1868(明治1)明治維新、五箇条の誓文。1874(明治7)明善寺(浄土真宗(西)本願寺派、畝傍村の会所として使用)、廃寺(1868年、慶応4、神仏分離令→仏教排撃運動に関連か?)。(現在に至る宮座の関連寺院:浄宗寺(北越智、楠木一族の菩提寺→浄土真宗(西)本願寺派→浄土真宗興正(寺)派、畝傍村関連の史料残る?)→法満寺(飛鳥、浄土真宗(西)本願寺派)。)1976(明治9)興正派、西本願寺派から独立。1877(明治10)西南の役。1882(明治15)頃、畝傍村の戸数・人口(男63・女63)。 PDFファイル(明治15年頃、畝傍地区散在文書) (*1886(明治19)防護巡洋艦[畝傍](畝傍艦、排水量3,615トン、全長98.0m、全幅13.1m)行方不明、シンガポール沖、台風のため?、青山霊園に[畝傍の森]あり)。1888(明治21)奈良県県会議員西内成郷、橿原神宮創建を請願、畝傍橿原宮跡の位置決定(旧畝傍村高畠;但し、遺跡など見つからず)。1888(明治21)神武天皇橿原宮跡に治定された宮地の買収。1889(明治22)白橿村成立。大日本帝国憲法発布。1890(明治23)橿原神宮創建。1891(明治24)大和三山が皇室御陵化。1893(明治26)大阪鉄道王寺・桜井間開通、畝傍駅開設(現JR桜井線)。1894-1895((明治27-28)日清戦争。1902(明治35)(皇祖神武天皇御陵並橿原神宮御大前及御陵道改修費補助ニ関スル建議書)衆議院可決。1904-1905(明治37-38)日露戦争。1910(明治43)義民顕彰碑(嗚呼義民惣治郎霊)建立;東大谷日女命神社内)。
  24. 大正時代(1912-1926、大正1-16):第百二十三代大正天皇。1914-1918(大正3-7)第一次世界大戦。1914(大正3)清六(4代)。1915(大正4)橿原神宮第一次拡張事畝傍・久米・四条の民家10戸が移転。1923(大正12)関東大震災。1926(大正15)橿原神宮第二次拡張事業。神宮前東方の家屋移転。
  25. 昭和時代(1926-1989、昭和1-64):第百二十四代昭和天皇。1928(昭和3)白橿村を畝傍町と改称。1931(昭和6)満州事変。1930(昭和5)戸数72・人口357。1936(昭和11、皇紀2596)墓地移転記念の碑建設(紀元2600年記念事業のため)。1937(昭和12)日中戦争起こる。1939(昭和14)橿原神宮第三次拡張事業。畝傍・久米・大久保の240戸が(強制)移転、旧畝傍村墓地も移転(旧畝傍村→畝傍町→石川町)、畝火山口神社も畝傍山山頂から現在の場所に移転(橿原神宮を見下ろす位置にあったため;(見下ろす位置にある)東大谷日女命神社は移転されなかった、理由不明)(全国から、建国奉仕隊121万人が参加して、移転作業・植樹などを行う;橿原神宮の境域(内苑):4.8万m2(明治23)→12万m2)。(畝傍村の、旧畝傍村から近鉄畝傍御陵前近くへの移転の際には、個人住宅については、約500円(当時;現在までの物価上昇は数千倍)/一軒が支払われた;畝傍・久米の代表が上京して、補償交渉を行った。個人所有の田地については、二束三文の買収費で、(お国のために)手放したとの伝えあり。旧畝傍村の広大な共有地部分(深田池、長山、新池、畝傍山の一部など)は(強制)寄進した?(買収換地したという伝えはない。)大阪電気軌道畝傍線八木西口・橿原神宮前間、東に約300m(現近鉄橿原線の場所へ)移設。1940(昭和15)紀元2600年奉祝行事開催。1941年12月(真珠湾攻撃)-1945(昭和16-20)太平洋戦争。1946(昭和21)日本国憲法公布。1949(昭和24)湯川秀樹ノーベル賞を受く。1956(昭和31)日本国際連合加盟。1960(昭和35)世帯数・人口93・348。1970(昭和45)県立橿原文庫→県立橿原図書館、大和歴史館→県立考古学博物館、改称。1989(昭和64)昭和天皇崩御。
  26. 平成時代(1989-): PDFファイル(「橿原神宮と建国奉仕隊」より)
  27. B. 畝傍町(旧畝傍村)の氏神様
  28. 池田神社(いけだじんじゃ、旧畝傍村字池田に位置する神社の意味;第四代懿徳天皇の皇后を祀る?、前方後円墳(江戸時代は懿徳天皇皇后陵と呼んだ?)の後円墳部分にあり;明治8年ごろまでは、懿徳天皇社と呼ばれていた):旧畝傍村(畝火村、白橿村大字畝傍、高市郡畝傍町大字畝傍;現橿原市畝傍町)の氏神さま。(畝傍町内で“下(しも)の宮さま”とよばれている。) 東大谷日女命神社(やまとおおたにひめみことじんじゃ、旧畝傍村字唐院に位置する;江戸時代は熊野神社と呼ばれていた(熊野三所権現と関連か?);神仏習合による権現が明治維新で廃止され、明治10年ごろ12社(じゅうにしゃ、祈雨の神社)と呼ばれた。明治20年ごろから、東大谷日女命神社と呼ばれるようになった;神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)→第一代神武天皇の皇后を祀ると伝えられる、東大谷:畝傍山の東の大谷にあるため?);現在、権現は復活しているので、再び、熊野神社と呼んでよい?:旧畝傍村(畝火村、白橿村大字畝傍、高市郡畝傍町大字畝傍、現橿原市畝傍町)の氏神さま。(畝傍町内で“上(かみ)の宮さま”とよばれている。) PDFファイル(出典不明)
  29. C. 畝傍町の文化施設・社寺・福祉など
  30. 奈良県立橿原考古学研究所、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、奈良県立橿原公苑(野球場、陸上競技場、多目的広場、柔剣道場、第1.2体育館、弓道場、庭球場(フットサルコート)、相撲場)、橿原森林遊苑
  31. 池田神社、東大谷日女命神社、山口神社、橿原神宮、明善寺、天竜稲荷大明神社
  32. 畝傍町集会場、橿原市保健福祉センター、社会福祉法人橿原市社会福祉協議会、橿原市休日夜間応急診療所
  33. D. 畝傍町の歳時記
  34. とんど(1月)、神武祭(4月)、でんそそ祭(7月)、橿原夢の森フェスティバル(10月)、橿原菊花展(10-11月)
  35. E. 畝傍山と万葉集
  36. 中大兄(なかのおほえ) [近江宮(あふみのみや)に天(あめ)の下(した)治めたまひし天皇]の三山(みつやま)の歌一首
  37. 香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき 
  38. 反歌
  39. 香具山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)
  40. わたつみの 豊旗雲(とよはたくも)に 入日(いりひ)見し 今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけかりこそ
  41. 右の一首の歌、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。ただし、旧本にこの歌を以(もち)て反歌に載(の)せたり。故(このゆゑ)に今も猶(なほ)しこの次(つぎて)に載す。また紀に曰(いは)く、「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)の先(さき)の四年乙巳(いつし)に天皇を立てて皇太子(わうたいし)としたまふ」といふ。 (巻一の十三〜十五)
  42. 天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の道は 我妹子(わがもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど やまず行かば 人目(ひとめ)を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後(のち)も逢はむと 大船(おほぶね)の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに渡る日に 暮れ行くがごと 照る月の 雲隠るごと 沖の藻の 靡(なび)きし妹は 黄葉(もみじば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の言へば 梓弓(あずさゆみ) 音に聞きて 言はむすべ  為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が戀ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる情(こころ)もありやと 我妹子(わがもこ)が 止(や)まず出て見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉襷(たまだすき) 畝傍(うねび)の山に 鳴く 鳥の 聲(こえ)も聞こえず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似(に)てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて袖そ振りつる 柿本人麻呂 巻2-207
  43. 思ひあまり甚(いた)もすべ無(な)み玉襷(たまたすき)畝傍の山に我れ標(しめ)結(ゆ)ふ 作者不詳 巻7-1335
  44. 近江の荒れたる都を過ぐる時 柿本朝臣人麻呂の作る歌
  45. 玉襷(たすき)畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継(つぎ)継に 天(あめ)の下(した) 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山越えて いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあらねど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津(おほつ)の宮に 天(あめ)の下 知らしめしけむ 天皇(すめろぎ)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿(おほとの)は 此処と言へども 春草の 繁(しげ)く生ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おおみやどころ) 見れば悲しも 柿本人麻呂 巻1-29
  46. 反歌
  47. 楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ(1-30)
  48. 楽浪の志賀の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたも逢はめやも(1-31)
  49. 族(やがら)を喩す歌一首、また短歌
  50. 久かたの 天の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし 天孫(すめろき)の 神の御代より 梔弓(はじゆみ)を 手握り持たし 真鹿児矢(まかこや)を 手挟み添へて大久米の ますら健男(たけを)を 先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 天皇の 天の日嗣(ひつぎ)と 次第(つぎて)来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して 仕へくる 祖(おや)の職業(つかさ)と 事立(ことた)てて 授け賜へる 子孫(うみのこ)のいや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき 清きその名そ 疎(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 遠祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 健男(ますらを)の伴 大伴家持 巻20-4465
  51. 反歌
  52. 磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ(20-4466)
  53. 剣大刀(つるぎたち)いよよ磨ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来にしその名そ(20-4467)
  54. 右、淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言(よこ)せしに縁りて、出雲守大伴古慈悲(こじひの)宿禰任(つかさ)解けぬ。是以(かれ)家持此の歌をよめり。
  55. 神亀元年(742年)甲子の冬十月、紀伊国(きのくに)に幸(いでま)しし時に、従駕(みとも)の人に贈らむがために、娘子(をとめ)に誂(あとら)へられて作れる歌 并せて短歌 笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)
  56. 大君の 行幸(みゆき)のまにま 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の雄(を)と 出で行きし 愛(うつく)し夫(つま)は 天(あま)飛ぶや 軽(かる)の路(みち)より 玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)を見つつ 麻裳(あさも)よし 紀路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) 越ゆらむ君は 黄葉(もみちば)の 散り飛ぶ見つつ 親(にきびに)し われは思はず 草枕(くさまくら) 旅を宜(よろ)しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに黙然(もだ)もありえねば わが背子(せこ)が 行(ゆき)のまにまに 追はむとは 千遍(ちたび)おもへど 手弱女(たわやめ)の わが身にしあれば 道守(みちもり)の 問はむ答を 言ひ遣(や)らむ 術(すべ)を知らにと 立ちて爪(つま)づく 笠金村 巻4-543
  57. 反 歌
  58. 後(おく)れゐて 恋ひつつあらずは 紀伊(き)の国の 妹背(いもせ)の山の 山にあらましものを(4-544)
  59. わが背子(せこ)が 跡ふみ求め 追ひ行かば 紀伊(き)の関守(せきもり)い 留(とど)めてむかも(4-545)
  60. 藤原宮の御井(みゐ)の歌 并せて短歌(詠み人知らず)
  61. やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の御子(みこ)荒栲(あらたへ)の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始め給ひて 埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見(め)し給へば 大和の 青香具山(あをかぐやま)は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 繁(しみ)さび立てり 畝火(うねび)の この瑞(みづ)山は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山(みずやま)と 山さびいます 耳成(みみなし)の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大御門に 宜(よろ)しなへ神さび立てり 名くはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大御門ゆ 雲居(くもゐ)にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭(みかげ) 天(あめ)知るや 日の御蔭の 水こそば 常(とこしへ)にあらめ 御井(みゐ)の清水(しみづ) 詠み人知らず  巻1-52
  62. 短歌
  63. 藤原の 大宮仕へ 生(あ)れつぐや 処女(をとめ)がともは 羨(とも)しきろかも  (1-53)
  64. 大和三山(畝傍山、(神宿る)天香具山、(「神代より・・・」の)耳成山)は畝傍山を頂点に、二等辺三角形を形成している。畝傍山から垂線を下すと、ほぼ線上に藤原宮があり、その先に三輪山(神の山)がある。
  65. F.畝傍山と古事記
  66. 佐葦河(さいがわ)よ 雲立(くもた)ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
  67. 畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木(こ)の葉さやげる 伊須気余理比売(いすけよりひめ) 古事記中巻
  68. G.歴史散歩経路
  69. 畝傍村関連:近鉄畝傍御陵前駅→旧橿原図書館北側(旧畝傍御陵前駅跡)→池田神社(畝傍村字池田)→東大谷女命神社→義民顕彰碑(嗚呼義民惣治郎霊)→東大谷女命神社南側(明善寺跡)→畝傍山山頂(山口神社跡、住吉大社の埴土(はにつち)を採取する聖地(祭礼に使われる土器を作るための、土を取る[埴土神事]が毎年行われる)(*1950年代まで、乃木希典(のぎ まれすけ、明治期の軍人→学習院長)大将の墓あり))→山口神社(万葉歌碑)→石の地蔵さん(畝傍山南側中腹、畝傍村墓地跡)→新池(畝傍村の池)→橿原神宮本殿(畝傍村字高畑)→長山稲荷社(畝傍村字長山)→深田池→橿原神宮一の鳥居(久米寺駅・畝傍村村役場・畝傍村郵便局跡)→橿原球場・陸上競技場(畝傍村田畑跡)→考古学研究所(畝傍村墓地一次移転先)→明善寺→近鉄畝傍御陵前駅
  70. 強制移転関連:畝傍御陵前駅→橿原道場建設記念乃碑(考古学研究所西側)→旧橿原図書館(旧橿原文庫)→旧橿原図書館北側(旧畝傍御陵前駅跡)→考古学博物館(旧八紘寮;八紘、全世界の意;参考、八紘一宇)→考古学博物館南側(旧建国会館)→考古学研究所(旧大和国史館)→考古学研究所西側(旧野外公堂、大講堂、相撲道場跡)→橿原球場(建国奉仕隊碑、近衛文麿書)・陸上競技場(大運動場跡)→陸上競技場東側(紫光館跡)→畝傍山山頂(山口神社跡)→山口神社→橿原神宮→深田池→八紘寮→橿原神宮一の鳥居(旧橿原神宮(前)駅、久米寺駅跡)→近鉄橿原神宮前駅 古代史関連:近鉄畝傍御陵前駅→考古学博物館→考古学研究所→陸上競技場(橿原遺跡)→池田神社(イトクの森古墳)→畝傍山→近鉄橿原神宮前駅
  71. H. 橿原市、奈良県の歴史遺産、橿原市北越智町浄宗寺を守ろう会
  72. 橿原市立図書館、郷土資料目録(非出版物の部)史料情報共有化データベース、橿原市北越智町浄宗寺文書(写真本)、浄宗寺記艦、越智古老伝など(室町時代に遡る)。寺院教会礼拝施設由緒沿革一件書、p.608、高市郡新沢村北越智、貝吹山浄宗寺(昭和18年、住職吉田哲英)(奈良県立図書情報館)。
  73. I. 商店など
  74. J. 畝傍町(村)歴代町(村)長
  75. K. 畝傍町のご当地キャラクター
  76. L. 参考文献
  77. 奈良県の歴史、和田・安田・幡鎌・谷山・山上(山川出版社、2003)。角川日本地名大辞典29、奈良県(編纂委員会編、角川書店、1990)。高木博志、人文学報83, 19 (2000)。永瀬節治、日本都市計画学会都市計画論文集44-3, 865 (2009)。橿原神宮と建国奉仕隊、藤田宗光(阪神急行電鉄株式会社、1940)。畝傍南校区人権教育推進協議会地区別懇談会資料、岸本由紀子、奥本武祐(2012)。歴代天皇紀、肥後和男編(秋田書店、1982)。読めばすっきり!よくわかる天皇家の歴史、河合敦(角川SSC新書、2012)。大和三山の古代、上野 誠(講談社、2008)。標準日本史年表、児玉幸多編(吉川弘文館、2012)。国土地理院(旧版地図)。東大谷女命神社社殿内壁画。万葉歌碑(橿原市)。大伴氏、宝賀寿男(青垣書店、2013)。
  78. 橿原市立図書館:貴重史料;大和国高市郡畝傍村明治19年更正地図(橿原市立図書館、明治19年当時の畝傍村の詳細地図あり)。高市郡畝傍村実測全図(橿原市立図書館、明治22年)。貴重資料:橿原市立図書館郷土資料目録(非出版物の部)史料情報共有化データベース、橿原市北越智町浄宗寺文書(写真本)、浄宗寺記艦、越智古老伝など(室町時代に遡る)。天理大学附属図書館、天理図書館近世文書目録第2(大和国高市郡之部)、昭和61年、畝傍地区散在文書(明治中頃(?)の高市郡畝傍村実測全図あり)、橿原神宮関係文書、久米村散在文書、越智村散在文書(写真本、橿原市立図書館)。奈良県立奈良図書館所蔵高市郡白橿村神社明細帳(マイクロプリント本、橿原市立図書館)、池田神社明細帳(欠年)、十二神社(熊野神社、東大谷女命神社と呼ばず)明細帳(明治26年)、山口神社明細帳(明治26)。
  79. 奈良県立図書情報館:橿原市史(奈良県立図書情報館)。貴重書庫;官幣大社橿原神宮之図、1895(明治28)(明治28年当時の畝傍村、橿原神宮本殿、千鳥の池、鏡池を含む(写実的な)図、(奈良県立図書情報館)。奈良県畝傍公園平面図、1932(昭和7)(昭和7年当時の橿原神宮境内表参道、裏参道、御堀、畝傍町役場(橿原神宮北東)を含む、奈良県立図書情報館)。公文書:大和国各郡寺院調表の件、奈良県庁文書、1873(明治6)、p.1149、高市郡寺院表、畝傍村明善寺(真宗、興正寺派、40坪、住職 龍道)(奈良県立図書情報館)。明治24年官幣社明細帳、高市郡神社明細帳、1879、奈良県庁文書(奈良県立図書情報館)昭和12年橿原神宮に関する書類、奈良県庁(林務課)文書、1937(橿原神宮敷地買収、地上物件処理、移転に関する文書(奈良県立図書情報館)。寺院教会礼拝施設由緒沿革一件書、p.608、高市郡新沢村北越智、貝吹山浄宗寺(昭和18年、住職吉田哲英)(奈良県立図書情報館)。
  80. 天理大学附属図書館:天理図書館近世文書目録第2(大和国高市郡之部)、昭和61年、畝傍地区散在文書(明治中頃(?)の高市郡畝傍村実測全図あり)、橿原神宮関係文書、久米村散在文書、越智村散在文書。史料情報共有化データベース、橿原市北越智町浄宗寺文書、浄宗寺記艦、越智古老伝など。
  81. 紀元2600年復元映像:金鵄輝く建国の聖地(紀元2600年奈良県奉祝会、朝日新聞社、昭和15年)。
  82. 個人所蔵資料:
  83. 謝辞:史料、地図の転載許可に関するお願いと謝意表明(予定)。